ドキュメンタリー

名古屋東山動植物園で太平洋戦争を生き延びたゾウ・マカニーとエルド

2016年4月29日放送NHK「歴史秘話ヒストリア」SP
「あしたは動物園に行こう」で、

太平洋戦争のさなか、ゾウを守ろうと命がけで立ち向かった人たちの感動秘話が取り上げられます。
名古屋東山動植物園で、戦争を生き延び、戦後は「ゾウ列車」で多くの子どもたちに愛されたアジアゾウ、
マカニーとエルドについて、放送の前にまとめました。

太平洋戦争を生き延びたゾウ、マカニーとエルド

太平洋戦争(第二次世界大戦中)、多くの動物園で
「猛獣」とされる動物が殺処分されたり、餓死したりしました。

上野動物園では、アジアゾウのトンキー、ワンリー、ジョンの3頭が餓死させられました。

そうした状況の中で、
東山動植物園のアジアゾウ、マカニーとエルドは
戦後まで無事に生き延びることができたのです。

それはどうしてだったのでしょうか?

猛獣殺処分は日本軍の命令ではなかった

有名な「かわいそうなぞう」の物語などで、

ライオン、トラなどの肉食動物
カバ、ゾウなどの大型草食動物、

を殺処分するように、国あるいは軍から命令があった、とする記述がありますが、
これは正確ではありません。

上野動物園の場合、殺処分をだしたのは、初代東京都長官(現在の東京都知事)となった内務官僚・大達茂雄です。

この人、1953年5月21日に第5次吉田内閣で文部大臣になっています。
1944年時点で小磯国昭内閣の内相となり、終戦を迎えたのち公職から追放されていましたが、
1952年にサンフランシスコの講和条約公職追放が解除されたので、政界に戻ったんですね。

ただ、この人は戦時中は東京都長官だったので、
名古屋東山動物園に対して殺処分命令を出すはずもなく、

では、東山で、「ゾウたちを殺さなければならない」状況になった理由はなんだったのでしょうか。

北王英一園長の努力

当時の東山動物園の園長は、初代延長である北王英一(きたおう えいいち)氏でした。

昭和18年、名古屋で日本動物園協会の総会が開かれました。
その席で、東京では空襲に備えて、上野動物園の猛獣を処置したという情報が伝えられます。

9月にもう一度開かれた総会では、
名古屋、大阪、京都、神戸、高松、宝塚の園長が集まり、

・皇都である、東京と他の都市では事情が異なる。焦って動物を殺すようなことがないようにしよう

・猛獣舎の設備をとにかく頑丈にする

・防空演習をして、対策が十分であることをアピールする

・市民に対しては決して動物を逃がさないということを宣伝する

という申し合わせがなされました。

しかし、昭和18年12月を過ぎ、戦況が悪化してくるにつれ、あちこちの動物園では動物を殺処分した、閉園した、という話が聞変えるようになりました。

北王園長は、だからといってゾウまで殺さなくなっていいじゃないか、なんとしても頑張ろう、と決意をし、
市当局の上司と相談して、空襲によって情勢が切迫した場合には、
園長の判断によって猛獣の処置が出来るという、市長の決裁をとりました。

いざとなったら園長の判断で、その場で猛獣を処分できる、ということにしておけば、
ギリギリまでねばれる、と考えてのことでした。

しかし、日々周囲の市民から「猛獣を殺処分しろ」という投書が舞い込み、
警備に来ている猟友会の人たちは「動物を処分すれば家にいられる」という圧力をかけられます。

そして、昭和18年12月13日の空襲で、ついにヒョウ2頭、トラ1頭、熊2頭、ライオン2頭を殺処分しました。

昭和20年1月、名古屋師団が動物園を使用することなり、東山動物園は閉園しました。
2月15日の空襲でチンパンジー舎が破壊されましたが、別の獣舎に移動させ、
ゾウ二頭とともに、そのちょうど半年後の終戦を迎えることができました。

日本軍に助けられたゾウ

この話がNHKで放送されるかどうかは分かりませんが、

東山動物園のゾウ、マカニーとエルドが終戦まで生き延びることができたのは
北王園長や飼育係の人の努力だけではなく、ある日本軍の軍獣医のひそかな協力がありました。

ゾウには大量のえさが必要です。
動物園は野生と比べて運動量が少ないので、少な目にはなりますが、
それでも、青草・干し草を中心に、リンゴ、人参など、全部で一頭あたり80~100㎏のえさを食べます。

人間の食料もままならない中、二頭のゾウが食べる1日160~200㎏のエサを確保するのは困難を極めます。

上野の三頭も、昭和18年に餓死させられなくても、食糧不足で死んでしまったかもしれません。

ところが、東山ではゾウ舎の通路に、軍馬用の飼料が放置されている、という事態が起き、
動物園の人はこれをこっそりゾウに食べさせました。

これは、東海軍管区司令部の獣医部大尉、三井高孟(たかおさ)さんがひそかに部下に命じて行っていたことでした。
きっと三井さんは、同じ動物の命を守る仕事をするものとして、困り果てている動物園の人やおなかをすかせているゾウを放っておけなかったのでしょう。

三井さんの命令で通路に飼料を運び込んだ部下も、真意は分かっていたでしょう。
もしもバレたら、軍部物資の横流しとして処分はま逃れませんが、それでもみんなだまってやっていたのですね。

戦後の象列車

なんとか生き延びて、終戦を迎えた、東山動物園のマカニーとエルド。

終戦時、ほとんどの日本の動物園には、本来動物園にいるような動物はいませんでした。

そこで、昭和24年5月に、台東区の子供議会が
名古屋のゾウを1頭東京に借り受けたい、という決議をして
代表が名古屋までやってきました。

しかし、二頭のゾウはとても仲が良く(二頭ともメスですが)
無理やり引き裂くと病気になってしまう、といことを実演してみせたそうです。

エルドを一頭だけ室内飼育場のに残して、マカニーを無理やり外に連れ出したところ、
エルドは、体当たりで戸を破ろうとして頭から血を流して叫び続け、
マカニーも走ってゾウ舎まで戻りました。
(現在の感覚では、この「実演」もかなりマズイ感じで、今ではぜったいにこんなことはしません。)

この様子を見た子供たちはゾウを借りることはあきらめ、
象列車を仕立てて、東京から名古屋までゾウを見に来る、ということになりました。

また、その後、昭和24年9月にはインドのガンジー首相からメスゾウのインディラ、
タイからはメスゾウのはな子が贈られました。

東山のゾウのその後

マカニーとエルドは、東山でショーを見せていましたが、
昭和30年、マカニーが飼育係を踏み殺す、という事件が起きてショーは中止になり、
昭和38年9月10月に、二頭は続けて死亡しました。

現在、東山動物園には、ワルダー(42才)というメスのインドゾウ、

スリランカのピンナワラゾウ保護繁殖センターからきた、コサラ(オス11才)、アヌラ(メス14才)と、
二頭の間に生まれたさくら(メス3才)がいます。

さくらが生まれる少し前に、東山動植物園のアジアゾウ舎は国内最大規模の「ゾージアム」となり、
かつて、マナニーとエルドが暮らしていたゾウ舎は、今は広場になっています。

さくらは、日本の動物園で、初めて日本人のみのスタッフのもとで誕生し
自然哺育に成功したアジアゾウです。
戦後60年もたって、「初めて」と思うと、ある意味愕然としますが、
戦前戦後通じて、日本の動物園は長く「展示のみ目的とした単性飼育」を行ってきたためですね。

オスゾウには、マスト、という生理周期があり(発情と直接関係するのかは不明)
反抗的になったり暴れたりするために飼育施設にも技術にも困難があり、
あまり飼育されてこなかった、ということもあります。

しかし、現在アジアゾウは絶滅危惧種であり、
ある意味「命の使い捨て」となってしまう展示目的の単性飼育は認められないという流れがありますので、
現在は、各園、ゾウの繁殖に取り組んでいます。

ちなみに、インドゾウとスリランカゾウとは異なる亜種であり日本では亜種の混血はさせないため、
東山で生まれたさくらは、多摩動物公園、徳山動物園、千葉市動物園にいる
オスのスリランカゾウのもとにお嫁入りするか、
スリランカから新しくオスを導入するか、ということになりそうです。



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