バラエティ

江戸時代のメイド喫茶・水茶屋とは?

2016年5月3日放送「林修の今でしょ!講座 3時間スペシャル」で
国際日本文化研究センター准教授磯田道史さんがレクチャーする

「江戸時代って面白い!江戸庶民の暮らし講座」

江戸時代の庶民に人気の職業やそのお給料、流行った飲食店、医療の話などを取り上げますが、
予告で、

江戸時代のメイド喫茶

と言われていたのが、水茶屋です。

水茶屋とは?

水茶屋は、小ざるの中に茶を入れて熱湯を注いで出す、漉茶(こしちゃ)を客に飲ませる店で、
江戸時代の初期には地面にむしろを引いた簡素なものでした。

これが、店を構えるようになり、店舗数も増えて、サービス競争が激しくなります。

このとき、競われたサービスは、
お茶の味や、お菓子(だんごとか)の味ではなく、

看板娘

の存在でした。

最初は、店主の娘や嫁が手伝っていたものが、
その美しさが評判を呼んで、やがてお茶ではなく、娘を目当てに通う客が現れるようになりました。

特に評判を呼んだのは、宝暦111761)年ごろ、人気絵師・鈴木春信の浮世絵のモデルにもなった「笠森おせん」。

12~3才のころから店に出ており、江戸三大美人の一人として有名になりました。
ちなみに、その他の二人は、浅草寺内の柳屋お藤、蔦屋お芳です。

それまで浮世絵に描かれる美女は、吉原の花魁や歌舞伎役者(こちらは本当の女性ではなく女装した男性なわけですが)が美々しく着飾り、化粧をした姿でした。

しかし、春信が描いたおせんは、素顔に木綿の着物でかいがいしく立ち働く姿。
しかも、大金を出さなければ会うことができない花魁と違い
茶1杯の値段で「会いに行く」ことができます。

これが、江戸の男性たちにとっては新鮮だったのですね。

おせん、お藤、お蔦の人気を見た他の茶店も、競って美しい娘を雇いきれいな着物姿で店に出すようになり
たちまち、茶屋娘ブームが沸き起こりました。

会いに行かれるアイドル

という点では、メイド喫茶というよりも、AKB48みたいですよね。

おせんの失踪

ところで、おせんは明和7年(1770)、20才のことに突然姿を消しました。

人気絶頂の茶屋娘の失踪、ということで大騒ぎになりますが、
実は、おせんは、御庭番倉地政之助という武士の妻になっていました。

御庭番は、八代将軍吉宗のときに設けられた、秘密裏の調査をする役で(ただし、時代劇のような「忍者」ではありません)、下級の御家人、といった身分ではありますが、武士の娘が武家の奥方になった、という意味では玉の輿です。

政之助とおせんは夫婦仲もよく、7男3女を設け、おせんは77才(79才、という資料もありますが満年齢と数え年のちがいかもしれません)で天寿を全うしました。

水茶屋はどうなった?

水茶屋ブームが過熱していく中で、
看板娘の中に、贔屓の客との間で売春行為を行う、という事態が起こり、

幕府は風紀の乱れをただすために、水茶屋に若い娘を置くことを禁止し、

天保の改革(1841~1843)では、水茶屋に対して商売替えのお触書が出され、
これを機に水茶屋は衰退していくことになりました。



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